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ツーリング中の昼食の摂り方について、これが正解といったものがないのは自明である。同じ人でも年を経るにつれ好みが変わってくることもある。 けれど、昼食がツーリングのなかで重要な位置を占めていることもまた事実である。ファーストラン、担ぎの峠越え、砂漠のアドベンチャー、奈良の遺跡巡り、ツーリングの好みには色々あるが、初対面のサイクリストであっても、どんな食事の摂り方をしているかを訊けばその人がどんなツーリングをしているかが何となく解ってしまう。それほどまでに食事の存在は大きく、もしかするとツーリングの組み方のかなり大きな部分が、昼食をどう食べるかで左右されているのではないか。自転車という趣味を長く続けていくにつれ、もしマンネリ化を感じることがあれば、昼ごはんを変えてみれば走りがリフレッシュされるきっかけとなるかもしれない。そう思って今回は、「私の昼食」を特集することでツーリングの一つのかたちを紹介したい。 1 子供のころのこと、ツーリングに憧れていた時代 私の中学生のころは、自転車はBSの鉄リムの498車で、日帰りで家から目的地まで往復するという形がほとんどだった。お昼の弁当を、リュックサックに背負って走っていた。自分で詰めた記憶はないから、たぶん母親に詰めてもらったのだろう。そのころは、久居の自宅を出発して、大王崎とか、信楽とか、大津の石山寺とか、ツーリングにはっきりした目的地があった。昼に到着し、どこか川原か海辺の堤防で弁当を食べた。白いプラスチックの弁当箱で、湿気で新聞紙がしっとり湿っていた。中身はおにぎりとおかず、普通の弁当だった。午後からまた同じ道を家まで戻った。ただ昼を食べて帰ってくるというだけのことで、休憩もほとんどしなかった。大人のサイクリストがすれ違いざま手を上げて挨拶してくれると舞い上がるほど嬉しかった。 2 走ることに熱中していた時代 学生時代はさすがにもっと凝った計画を組むようになっていた。そして食事に時間と手間をかけないでとにかく走るということに執着していた。昼飯なんかに時間をかけている暇はない。昼は食堂か、パンなどを買い食いして済ませていた。まさに済ませるという言葉がぴったりである。道ばたでも店の前でも、食べる場所には全く頓着しなかった。コンロを買ってもそれを日帰りツーリングに持っていくことはなかった。それはキャンピングの夕食専用で、朝には火をおこすこともなかった。火をおこさないどころか、朝食を食べずに走り出した。そして少し走ってからどこかでパンなどを買った。その方が時間を節約できてたくさん走れるからである。 3 友人との邂逅の中で 社会人となって、他の大学のサイクリング部出身者と伊勢志摩輪友会を作った。おのずと、自分と違う「食習慣」の人と走ることになった。またレースの有名選手らとも知り合って一緒に走るようになった。なにより、自転車の本を執筆したことが大いに勉強になった。色々なことを契機として、ツーリングの組み方に考えることが多くなった。社会的には、学生時代にはなかったコンビニエンスストアが急速に全国に普及したことで、世間における弁当とは、「家から詰めていくもの」から「買うもの」へと様変わりした。このまま流れに乗っていて良いのだろうか、そういう思いが頭をもたげてきた。そしてやはり、家から弁当を作って持っていくことの真っ当さを再認識するようになった。 4 最高級カーボンフレームと、おにぎり 学生時代から走る時間を稼ぐためにやっていた買い食いに急に嫌気がさしたのは、コンビニの普及と無関係ではないと思う。目立たなかった頃は気にならなかったが、ここまで異常増殖すると、プラ皿によって代表されるあの雰囲気が鼻につくようになった。 私は自動車マニアでもオートバイマニアでもないが、名車に魅せられる彼らの気持ちは理解できるつもりだ。専門的な知識こそないものの、カッコイイということにはじゅうぶん共感できる。しかし、それらがコンビニの駐車場に停車しているのには幻滅せざるを得ない。ポルシェもドゥカティも、コンビニの前では急に色あせて見える。 私が家からおにぎりを持っていこうと思うようになった理由は第一に、自立性と主体性が求められるはずのツーリングにコンビニやスーパーへの依存性が入り込むことに危惧を感じるからである。また異様なほどの画一性に対する嫌悪感でもあるかもしれない。むろんその自立性とは精神面のことであって、弁当があればどこでも昼が食べられるという功利を言っているのではない。最高級カーボンフレームとデュラエースで組んだ自転車なのに数100gあるおにぎりを持つのは矛盾しているという人もいるだろう。しかし走りだけではなく、サイクリストとしての自立性・主体性とツーリングの完成度こそが大切だと思う私にとって、デュラ+おにぎりは全く矛盾ではないのである。 5 趣味のツーリングと世捨て人の放浪はどう違うか 正直をいうと私にはコンビニのプラ皿を嫌悪する資格はまったくない。というのも、学生時代の私は大の幼稚園派で、キャンピングにおいては全国各地の幼稚園の軒先で寝てきた。40代となった今も、冬の担ぎの峠越えや、ランドナーのツーリングにおいては、私は道ばたでラーメンを作ってそれを鍋のまま食べることがある。酒も飲む。鍋ごと食べるのが行儀悪いのはもちろん、空き地でコンロの湯を沸かしているというのが乞食くさい。これは自立性といっても違う意味の自立性であって、乞食と同じだ。 写真:ラーメンとおにぎり、タッパーの中には夕べのすき焼き、漬物、ハム。右下の黒い布は妻の作った箸袋。私のランドナーツーリングの定番スタイルだが・・ 私はキャリアなどの部品を自作するために、何かの廃物を材料に使うことがある。他人のいらなくなったもの、ごみになるはずのものを有効利用できたところに清廉な感じがあって、製作者本人は気持ちがいいものだが、他人には決して良い印象を与えないのを私は知っている。 盗んだ自転車を乗り継ぎながら日本国中を何周もして社会からの逃避行を続けている世捨て人が日本にはたくさんいる。私はかつて高校時代にそういう人と一緒に駅寝をしたことがある。話を聞けば彼らの走行距離は驚異的であるが、あくまでその走りは逃避に基づいている。一方、私たちサイクリストは、職業や家庭を保ったまま、走るというスポーツ、あるいは旅の楽しみを味わうために、計画性を持って走っている。その点で、両者は決定的に異なっているはずだ。 しかし、たとえば雑誌のコピーにある「気ままな旅」というもの、あるいは学生の走り、というものの原動力には、親や、受験や、家庭や、世間の束縛から逃げおおせた開放感が深層にあり、家族や社会とのつながりを持たない、ないし持とうとしない点では世捨て人の放浪と同じではないか。つまり心得によっては、趣味のツーリングと世捨て人の放浪の境界線が判然としないことがあるのではないか。そして傍観者から見れば、両者の違いは、何のために走るかという本質的なところではなく、実は食事の際の行儀といったような、走りの本筋から外れたところで境界が分かれているのではないか。そしてその結果どちらも大差ないととられてしまうことがありはしないか。自分の走りがそうした事態に陥っていないか、いま私は危機感を強く感じている。 6 自立しながら、同時に家庭にもつながっていること 「華麗なる双輪主義」(東京書籍)のなかで、著者の小池一介さんは、ツーリング中の食事に曲げわっぱの弁当箱や風呂敷、湯飲み茶碗を使うことを勧めている。この本は、読みようによっては表面上の格好ばかりを強調しているように読めなくもないが、著者の本当の意図は食器類に格好をつけるということではなく、ツーリング中の食事に実生活とのつながりを保つことで、健全な精神性を持った走りをしようということだと私は考えたい。 私は数年前から、手づくりの箸袋に(割り箸ではなく)普通の箸を包んでツーリングに持っていくことにしている。割り箸廃止論者なのではない。妻が縫って作ってくれた箸袋に包んでいく、というところに清涼感を感じるのだ。おにぎりはもちろん妻が握ってくれたものだ。そして夕べの残りか何か、おかずになるものをタッパーに詰めて持っていき、どこか日当たりの良いところに座って包みを開くというスタイルを心がけている。そうすることで、ツーリングの昼食に家庭とのつながりを表現できるのだ。 前述のように私は昼食の際の行儀にまだ迷いを残してはいる。しかしこのように食事に関して家とのつながりを大切にし、かつ自立性が保つように努めてはいる。 “コンビニハーレー”がカッコ悪いのは、乗り手の精神性をも含めて一台の車だということだろう。 自転車を大切にしている人や、走りのスポーツ性を大切にしている人は多い。しかしツーリングの精神性を大切にしている人はいったいどれだけいるだろうか。食事の摂り方をきちんとすることで、自転車の趣味はぐっと締まってくるはずだが、あなたはどう思うかな。
by rinyuukai
| 2012-03-22 22:24
| モノマニア通信
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