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(vol.1からつづく) 一昨日に見た天気予報では、明日は晴れるはずだったが、夜中じゅう、嵐そのものと言っていい風が猛烈に吹いていて、とても天気が良くなるようには思えなかった。テントはお皿の上にグリコプッチンプリンを高いところから落としたときのように、壊れそうなくらいプルンプルン揺れた。張り綱をきっちり張っていなければテントは飛ばされるだろう。酒を飲んでも、気持ちの緊張感から全然酔った感じがしなかった。 深夜、時折目を覚ましては青森に住んでいた学生時代を思い出していた。青森は一年中天気が悪い。晴れるということはめったにないし、たまに晴れても、3時を過ぎれば急速にかき曇り、冷たい雨が降ってくる。明日は晴れるというのは嘘だ・・・。うつらうつらしながら、明日は本当に走れるだろうかと、消極的な考えが交錯した。 半島西海岸 少し早く起きて支度をする。今日は西海岸を南下して脇野沢村を回り込み、少なくとも川内までは行きたい。この猛烈な風のなか、本当に自転車が真っ直ぐ走るかどうかわからないが、低気圧はだいぶ北上したはずだから、読みが正しければ北西風のはずだ。ならば追い風じゃないか。 願掛岩から半島西海岸を臨む (上:1963年8月宮本常一撮影、下:2012年11月3日著者撮影) 西海岸の村々は、古くから津軽地方、そして北海道との交流のあったところだ。宮本常一によると、古くはこの地域の人たちは、漁の働き手を得るため、津軽平野から農家の二男三男をもらい子として受け入れてきた。各漁村に一つずつある神社をみていると、稲荷社が多いのに気づく。稲荷社はもともと稲を守る神として農地で祀られることが多く、それがここ下北の断崖絶壁のような漁村で祀られるのは、やはり津軽との人の交流があったからではないだろうか。 また、下北から娘を嫁に出す場合は、津軽より北海道へ出すことが多かったという。私は学生時代に泊りがけで冬の徒歩旅行を敢行した際、大間近くで函館の診療所の広告が古い看板に掲げられているのを見たことがある。かつて大間の人は、病気になったら函館の医者にかかっていたのだ。 しかし北海道との交流が盛んであればあるほど、かつては事故も多く発生したに違いない。津軽海峡には昔の下北の人の亡骸がたくさん沈んでいるはずだ。海はどす黒くて波が高く、半島の絶壁と相まって、恐ろしげな形相だ。道はその断崖すれすれを登り、下り、そしてまた登る。 「何が珍しい」と、急に後でがらがら声がした。磯谷で家々にカメラを向けていた時だった。振り返ってみると、よく日焼けした漁師がニヤニヤ笑っている。軒先にマキがたくさん積んであるのを撮っていると答えると、マキか、マキなんか、そこらに一杯あらぁ、と笑い飛ばされた。下北半島のうち、むつから遠い地域では今もマキが暖房の主役だ。家々の軒先には大量のマキが積んである。各集落のはずれにはそれを供給するための作業場と小屋があって、小さな動力を使って材木をマキに加工し、小屋に備蓄しておく。家々は当面使う分だけ作業場から小出しにしてきて、軒先に積んでおいて使う。そのようにしているようだ。 しかし一方、下北は原発銀座という側面も持っている。東通村、核燃サイクル、すぐ近くの大間でも新しい原発を建設中だ。電力の消費地から遠い下北は、原発を押し付けられた結果、莫大で無尽蔵といえるエネルギーを手にしたが、そこに住んでいる人たちは今もマキをくべる生活を強いられているのだ。電気を消費している都会人たちは、この現実をどう思うだろうか。 今回のツーリングでは、宮本常一の「私の日本地図 下北半島」(未来社刊)を参考書とした、この中で宮本は、いま辺境の地とみられている下北にも、かつては都会に負けない豊かな文化があったことを書いている。しかし今、下北に原発とマキが共存する姿を見るにつけ、僻地化した下北の姿と、その原因となった都会人たちの差別意識を強く感じざるを得なかった。 磯谷の村 (上:1963年8月19日宮本常一撮影、下:2012年11月3日著者撮影) 空は私の危惧したとおり、終日鉛色の雲が覆い尽くして日は出なかった。磯谷、福浦、どの家々も玄関は締まっており、テレビの音、洗濯機の音、そういう生活の音が聞こえず、黒澤映画のように風と寒さだけがあった。道端で自転車を立て掛け、そのすぐそばに座り、ご飯を炊いて、みそ汁を入れ、昨夜の残りをおかずに昼食を食べていると、いまここで僕は旅の途中なんだなという実感が、体の底からじんわりと湧いてくる。脇野沢には午後3時ごろ着いた。(下北紀行vol.3につづく) 海峡ラインを越えて (この文章中のモノクロ写真は、未来社刊宮本常一著作集別集「私の日本地図③ 下北半島」から許可を得て複写したものです)
by rinyuukai
| 2012-11-27 22:48
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