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学生の頃にいったんは治癒した椎間板ヘルニアがこの冬になって再発し、痛くてこの冬は全く自転車に乗れなかった。しかし幸い歩くときは坐骨神経の痺れを感じないので、大杉谷の水越峠へ徒歩で登りに行くことにした。 ここは戦前から戦後にかけて、大杉谷からの材木の搬出のために使われた峠として知られている。峠道はすなわち廃線跡で、峠にはレールや飯場の跡が残っている。平成15年5月に太田君と西側を歩いたときは、「産業遺跡」ともいうべきこの峠の姿に圧倒され、労働者たちの汗の染みこんだ様子に言葉を失うだけだった。 長い間、地図に記載のない東側はどうなっているのか気になっていたが、あるサイトでここを歩いた記録を見つけて刺激を受け、いよいよこれは歩いてみたいとの気持ちが高まったのである。 江戸後期の人口の急激な増加に伴い、木材需要が高まりを見せ、紀州地方でも建築用材の伐採と搬出が盛んに行われるようになってきた。明治のころには、「とばし」あるいは「やえん」とよばれた、重力だけの簡単な索道を使って材木が山から搬出されていた。 「とばし」とは、鋼索が1本だけの原始的なもので、スピードの調整ができず、材木が途中で止まってしまったり、逆に勢いがつきすぎて終点に激突し材木を傷つけてしまうことがあった。また懸垂具を徒歩で山へ返す必要もあった。それに対して「やえん」は鋼索が2本で往復でき、スピードの調整もできるという利点があった。 明治から大正へ変わる頃になると、蒸気機関を利用したトロッコが大杉谷から水越峠へ敷設された。10年前に太田君とみた軌道跡がこれだ。昭和7年には、水越峠の東側にインクライン(ケーブルカー)、そして大河内川に沿ってガソリン機関の大河内軌道が敷設され、伐採地から船津まで、動力を使った本格的な搬出作業が行われるようになった。 しかしトロッコからインクラインへ、インクラインからまたトロッコへ、また森林鉄道へと何度も載せかえる必要があり、そのたびに危険な作業を強いられた。インクラインも上下2本に分かれていたし、それぞれの中継地点では多くの男手が要った。 大河内軌道はこの地方で最も大規模な森林鉄道だったが、昭和41年に千尋峠を越える林道が開通すると、材木の搬出はこの林道経由のトラック便にとってかわられ、同年廃線となった。その路線跡が現在の県道603号である。 つまり水越峠の東側とは、すなわちインクラインの路線跡であり、おのずと完全な直登だ。昭文社の「山と高原地図」には、水越峠東に「インクラ谷」の名が今も残っている。 県道603号を白滝まで上り、県道を谷側へ少し降りるとトロッコ道が現れる。ちょうど白滝の谷が本谷に合流するところにコンクリの橋が架かっているが、橋げたは落ちていて渡ることはできない。一旦谷の底まで降りてから谷を渡り、以降本谷に沿ってトロ道を辿ってインクラ谷を目指した。トロ道は、始めのうちは大河内川本谷左岸を、不動滝より上流は右岸を行く。渓流に沿って歩くのは実に気分がよい。たぶん子供のころ川釣りに熱中していたからだろう、サラサラ流れる音、苔の香り、光る水面、川のそばにいるだけで気持ちのよい高揚感を感じる。 インクラ谷右岸は、つい最近大規模な崩落があってとても上れるような状態ではない。一瞬気持ちがグラッとくるがここでひるんではいけない。インクラ谷出合から見上げると、トロ道は崩落した右岸とは無関係で、インクラ谷左岸の斜面のかなり上のほうについていることが分かる。左岸の斜面をよじ登ってトロ道に達し、荒れた谷を遡上。トロ道はすぐに尽きて道はなくなるが、インクラインの錆びた鋼索が、まるで道案内でもするように上へ上へと延びていっている。かつてはきれいに均されてそこにインクラインのレールがあったはずだが、いまは山津波で直径1~2mの大石がごろごろ転がる、道なんかでは全くない、ただの急斜面だ。往時は2本に分かれていたというインクラインの中継地点と思われる所では、石垣が城郭のように築かれている。そしてケーブルを巻く大きなウインチが放置されていた。自分が生まれたとき、既にこのウインチはこの状態で止まっていたのである。 ここから峠道、というより廃線跡は勾配を増し、四つんばいでないと登れない急登になった。本当にこれが峠道なんだろうか、どこかで谷を間違えたんじゃないかとやや不安になりかけたとき、斜面に割れた茶碗のかけらを見て不安が一掃された。飯場跡のある峠から崩れ落ちてきたものに違いない。水越峠でも野又峠でも、林業労働者の飯場跡には今も当時の食器が散乱している。この陶器のかけらは、自分が今登っている谷が峠につながるものであることを示しているはずだ。 ただ、こうしてさっきから1時間も全く「道」じゃないところを攀じ登ったり、ズルズル滑ったりしていると、これが本当に峠歩きなんだろうかと疑問符が頭に浮かんだ。趣味としての峠歩きと、トムソーヤの冒険は違う。今日自分がやっているのは、子どもの秘密基地ごっこと大差ないじゃないか。 峠には、材木を吊る盤台が今も残っている。そればかりか、労働者たちが煮炊きをした炊事場や風呂場が青空にさらされている。仕事を終えた彼らはここで汗を流し、酒を酌み交わしたに違いない。空になった一升瓶と錆びた鋼索が隣り合わせに転がっている(右写真:水越峠)。 その鋼索を拾い上げたり、五右衛門風呂にしゃがんだりしていると、かつてここが現役であった頃に対して、一種の羨ましさが込み上げてきた。身体を使って労働することが尊ばれた時代に対して、である。 思えば、すっかり不労所得が幅を利かせるようになってしまった。私の職場を見ても、現場からの乖離を感じることが、ここ20年で実に多くなった。理屈ばかりが力を持ち、理屈を言う人ばかりが上に立つ世の中になった。21世紀の今、身体で働くということに価値はない。働いている人は生計を立てることすらできず、働かない人ほど儲かる世になってしまった。国の中央集権は昔よりますます強くなったのではないか。 かつて「とばし」や「やえん」で材木を搬出していた時代、あるいはここにインクラインの作業場があった時代に帰って、いま東京の唱える理屈や、私の職場がとらわれているくだらない空論を労働者に聞かせてみたらどうだろう。能力のある一個の技術者でもあり組織の一員である私はそんな屁理屈と空論に振り回され、実務に集中したくても、それが難しくなってきた。 鉄と汗と掛け声、危険な搬出作業、一日が終われば風呂とメシ。あくる日もまた、鉄と汗と掛け声。命がけの場面も多かったはずの彼らの霊に不謹慎かもしれないが、働くことにまだ価値があった時代に憧憬を感じ、同時に、これから組織の中でどんなに翻弄されようとも、自分の現場主義を貫き、理屈に捕らわれることなく、地域に貢献できる実務家でありたい。この峠に上って、そんな決意がこみ上げてきた。 急勾配を、何度も何度も振り返りながら、もと来た道を帰った。一歩ごとに峠はどんどん見えなくなっていく。今日はいい一日だったのかもしれない。ここ最近購入した仕事の道具や英語の専門書たちが、何年か後にくたびれていたなら、今回の一日が子どものトムソーヤごっこでなく、意義のある峠歩きだったといえるだろう。 鉄と酒
by rinyuukai
| 2013-03-23 14:55
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